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F様は現在○○歳の男性ご利用者です。長年配管工事の職人として働き、自分の会社を興して職人さんを何人も世話していました。現在大きな自宅に奥様、息子さんと住んでいらっしゃいます。
F様は約3年前に貧血で入院。その間点滴を抜くなどの行為がみられたため、腰ベルトやミトンなどの抑制がありました。1ヶ月後退院しましたが、車イスで過ごすことが多かったこともあり歩行が難しくなり、その上アルツハイマーが進行し、自宅でありながら「じゃ帰ろうか」と腰をあげるなど家族を困惑させるようになりました。
家族、とりわけ奥様は少しでも長く一緒に自宅での生活を続けたいと願っていました。ですが、トイレに行くのはもちろんお風呂も奥様1人では危険です。
ケアマネと話し合い、外出の機会を持ち社会性を保つようにデイサービスを利用することになりました。
デイサービス初日のF様はなかなか強烈なインパクトでした。
「Fさんがつえを振り回してます」
「あ、あぶない。つえを預かって!」
「他のご利用者にあたったら大変...」
F様がご自分のつえをデイルームで振り回し始めたのです。
来所時は比較的穏やかなご様子で、職員の話にも静かに応えていたとのこと。利用開始に際し他害の情報もありませんでした。社会性を保つどころか他のご利用者に危害が及びかねません。
『万が一、他のご利用者にあたることがあったら大変だな。
暫くお一人だけ別対応が必要だろうか』
施設長はとっさにそう判断します。ところが介助員は笑顔で答えました。「施設長、大丈夫です、どうにかなります。」
職員の1人がF様に近づき話しかけました。
職員
「Fさん、お困りなことはなんですか、お話ししてください」
F様
「お困り?おう、困ってんだ。」
職員
「どうしましたか。聞かせてください」
なんとか椅子に座っていただき、話に気持ちが向いて、つえを離したすきを狙って隠します。
F様
「帰るんだ」
職員
「家に帰るんですか」
F様
「きまってるだろ」
職員
「わかりました、お送りしますね」
F様
「金がねえんだ、金貸してくれ」
職員
「お金は何に使うのですか?」
F様
「バス賃ないから貸してくれ」
職員
「今は持っていないんです。4時にここからバスが出ますが、そのバスは無料です」
F様(時計を見ながら)
「4時かよ...やっぱり自分で帰るわ。金貸してくれ」(その時点でまだ11時)
職員
「今は持っていないんです。」
F様
「なんで持ってねえのよ...」
1日、この会話が繰り返し続きました。
その日の夕方、職員ミーティングで早速F様の緊急会議です。
相談員
「まず、みんなの意見を聞かせてください。」
介助員A
「今は個別対応が必要です。今後はつきっきりのお相手は不可能なので、
他の対処を考えなければいけないと思います」
介助員B
「つえは預かることができるから他のご利用者にはまずは問題ないと思います」
介助員C
「初めての場所、初めての人ばかりでFさんの不安は時間を追って増幅してますね。」
介助員D
「つえを振り回すのも何かの意思表示ですね」
介助員A
「もしかしたらFさんには帰る目的がある、なにかを心に残しているのかもしれませんね」
介助員D
「まずはそれを理解してみましょう」
相談員
「では、次回から順番にルーム番(入浴介助等でルームを離れない職員)が
数名交代でF様に付きます。順番は分担表で確認してください。
朝の送迎から、お帰りになるまでの間、全員、気付いた点は
どんな細かいことでも報告してください」
全員
「はい」
なによりもF様には行かなければならない場所があったのです。
次のご利用日、お迎えの車がF様を乗せてセンターに到着します。
まずは、念のため、つえを預かります。前回のご様子で、介助が付けば歩行は心配ないことが分かりましたので、下車時、つえを手から放した際、そっと車の中に置いておき、そのままセンターに入りました。F様の歩行に問題はありませんでした。
ルームに到着し、しばらくすると「俺のつえ知んねえ?」とF様。一瞬緊張が走ります。介助員Aが「車に置いてありますよ。とってきますか」と聞くとF様は座っているからか「いいよ」と。これでつえの問題はクリアしました。あとは初日の会話を続けます。
F様
「帰るんだ」
職員
「家に帰るんですか」
F様
「きまってるだろ」
職員
「わかりました、お送りしますね」
F様
「金がねえ、金貸してくれ」
職員
「お金は何に使うのですか?」
F様
「バス賃ないから貸してくれ」
職員
「今は持っていないんです。4時にここからバスが出ますが、そのバスは無料です」
F様(時計を見ながら)
「4時かよ...やっぱり自分で帰るわ。金貸してくれ」
職員
「今は持っていないんです。」
F様
「なんで持ってねえのよ..,」
職員
「家に何か忘れたんですか」
F様
「おう...」
職員
「何を忘れたんですか」
F様
「何を、ってつえだよ。」
職員
「つえを忘れて、取りに行きたいんですね。今日必要ですか」
F様
「まあ、いいか」
1週間経ち、職員がF様との会話を続けるうちに、隣の席にいつも座っている男性ご利用者Мさんが職員の対応をまねてくださるようになりました。
F様
「帰れねえの?」
お隣さん
「バスが4時に出るよ」
次第にFさんは4時にバスが来ること、自分で帰るには遠いこと、ひざが痛いのでバスを待つのがいいことであるとを認識してくださるようになりました。3週間くらいたったころから、次第に落ち着きをとりもどし始めたF様は冬送迎でご自宅に伺うと、職員に「おい、寒いだろう、今日はわりいから(悪いから)やめとくよ」とか「お茶飲んでいけ」とか気遣ってくださるように。以前大勢の職人さんをお世話していたF様は、とても優しい方でした。
因みにお隣の男性ご利用者さんも、実はデイサービスご利用前は家でおトイレを失敗してしまったり夜起きだして歩き回ったりと、ご家族を困らせていましたが、今では「俺が面倒みてやってるんだ」と、お隣さんなりのデイサービスの目的ができ、それが利用継続となり、規則正しい生活をつくり、以前のように穏やかにお過ごしになるようになったとのこと。
F様もお隣さんもお互いさまでよかった。ご利用者様同士が高めあい、励まし合えるのがデイサービスの良さです。これからも末長くご利用くださいね。
実はとうとうF様の心の忘れ物はなんなのかわかりませんでした。F様の場合、他のご利用者の方との関係性が良い効果をもたらし、デイサービスのご利用も安定し規則正しい生活が送れています。
相談員
「F様は、今デイのご利用を楽しんでくださっていて、入浴されない事が
時々ありますが交流を持つ点では、達成できていると思います。
今後F様の興味があることをさがし、できることはなるべく
参加していただきましょう」
夏の納涼祭、駄菓子コーナーの店番を担当していただいたF様は、誰よりもハッピが似合っていました。そして今日もF様から声がかかります。
「おう!」
「Fさん、どうしましたか」
「おう、この人のお茶をついでやってよ。」
平成24年8月